幕末、江戸時代から明治時代への変わり目に起こったのが戊辰戦争です。
戊辰戦争の直前、新政府軍のプレッシャーに負けた将軍徳川慶喜は、天皇に政権を返上します(大政奉還)
しかし、薩摩と長州が中心の新政府軍は、そんなことでは満足しません。
政治の権力が江戸幕府から天皇(新政府軍)に移ったあとも、新政府軍はさらに軍事的に追い打ちをかけていきます。
そうして勃発したのが戊辰戦争なのです。
今回は戊辰戦争の流れや意味についてわかりやすく解説させていただきます。
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戊辰戦争の意味をわかりやすく解説
ひと言でいうと、戊辰戦争とは明治新政府軍が江戸幕府をつぶした最後の戦争です。
関ヶ原の戦いで徳川家が勝利して江戸幕府を建てたように、戊辰戦争に勝った新政府軍(薩摩や長州の連合軍)は明治新政府を確立します。
戊辰戦争が起こる直前の状況を整理しておきましょう。
江戸幕府側(最後の将軍の徳川慶喜)は、大政奉還という形で穏便に明治新政府に政権を渡すことで、新政府の中でも政治に参加するつもりでした。
徳川家は、将軍ではなくなったものの、「内大臣」という高い地位にあり、日本中に多くの領地をもつ超大大名だったのです。
しかし、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府の人間としては、将軍に政治を任せたくありませんよね。
辞官納地を求められた徳川慶喜
そこで徳川慶喜に地位も領地もすべて天皇に返すよう要求します(これを辞官納地:じかんのうちといいます)
これにはさすがに徳川家も納得できず、旧幕府側の人間と、奥羽越列藩同盟(東北北陸地方の31の藩)を率いて武力行使に出たのです。
新政府軍もすかさず反撃に出ます(もともとそのための大義名分が欲しかったのです)
こうして起こったのが戊辰戦争です。
結果的に明治新政府軍が江戸幕府をつぶすことになった戦争、それが戊辰戦争なんです。
なお、新政府軍といっても、京都にいる天皇が自ら軍を作ったわけではありません。
薩摩藩、長州藩、土佐藩などが中心となり、当時の天皇(明治天皇)をかついでいたというのが新政府軍の実際の姿です。
戊辰戦争の結果として幕府側は徹底的につぶされ、明治新政府による新しい政治が始まることになりました。
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戊辰戦争の流れをわかりやすく説明!
戊辰戦争の流れについて、さらにくわしく見ていきましょう。
徳川慶喜が大政奉還をした頃、江戸では強盗や放火などが頻発していました。
実は武力で幕府を倒したいと思っていた西郷隆盛が浪人を集めてひそかに指示していたのです。
1867年12月には市中取締担当の庄内藩の屯所に発砲。
これに腹を立てた幕府側が12月25日に薩摩藩邸を襲撃したことで、幕府から戦争を仕掛けてきた!という既成事実ができ上がったのです。
戊辰戦争は、次のような流れで展開していきます(これらをひっくるめて「戊辰戦争」と呼びます)
戊辰戦争の各種の戦闘
- ①鳥羽・伏見の戦い
- ②江戸城無血開城
- ③東北での戦い
- ④会津戦争
- ⑤五稜郭の戦い
以下、それぞれの戦いの場面について具体的に解説させていただきます。
①鳥羽・伏見の戦い
1868年1月2日、幕府軍約10,000人が京都に向けて進軍。
途中、淀方面と伏見方面に分かれました。
新政府軍の薩摩・長州藩は伏見方面と鳥羽方面に分かれて待ち受けます。
1月3日、鳥羽で両軍が衝突、その砲声が聞こえて伏見でも衝突が始まりました。
洋式の武器を持った新政府軍が勝利します。
②江戸城無血開城

(現代の皇居=昔の江戸城です)
初戦に勝った新政府軍は2月15日、江戸に向けて進軍します。
このままでは江戸が火の海になる!と心配する幕府側の勝海舟と、新政府側の西郷隆盛が会談を行い、新政府軍の江戸城総攻撃は中止になりました。
4月11日徳川慶喜は江戸城を出て水戸へ行き、江戸城は血を見ることなく新政府軍に引き渡されました。
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③東北での戦い
江戸城を手に入れた新政府軍は、幕府側についた東北の諸藩を狙います。
特に狙われたのは、会津藩と庄内藩です。
会津藩主松平容保は京都守護職として討幕勢力を狙った過去があります。
庄内藩は江戸市中を取り締まって、薩摩藩邸を襲った過去があります。
その恨みをこれから晴らそうと言うのです。
東北での戦いはさらに細かく展開を分けて説明すると以下のようになります。
③-1.白河城攻防戦
東北方面の入口となる、福島県白河市にある白河城。
5月1日に新政府軍に奪われました。
③-2.二本松城の戦い
7月29日、板垣退助率いる新政府軍が二本松城を攻撃します。
東北側の死者250人超に対して、新政府軍側の死者は25人と言われています。
③-3.庄内藩降伏
勢いに乗る新政府軍は、9月4日米沢藩、9月15日仙台藩と次々に攻撃していきます。
東北諸藩が降伏していく様子を見た庄内藩は、9月24日に降伏し東北での戦いは終わりました。
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④会津戦争

(会津若松城の夜景)
東北の諸藩を降伏させた新政府軍は、最後に会津藩を攻撃します。
会津戦争は次のように数々の悲劇が生まれた戦いです。
④-1.白虎隊の戦い
会津若松城につながる母成峠で会津藩が負けたことを知った松平容保は、16歳~17歳の少年で白虎隊を結成しました。
戸ノ口原で戦いに負けた白虎隊は8月23日に飯盛山に逃げました。
城下が燃えているのを見て落城したと勘違いした白虎隊は集団で自決しました。
この時ただ一人生き残った飯沼貞吉は、77歳まで白虎隊の悲劇を語り継ぎました。
④-2.会津落城
8月23日、新政府軍は会津若松城下に進軍。
籠城の足手まといになる婦女子は多数が自害しました。
一月持ちこたえたものの、9月22日武器弾薬食糧も尽きた会津側が降伏しました。
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⑤五稜郭の戦い

(土方歳三や榎本武明がこもった五稜郭)
幕府側にはまだまだ降伏を良しとしない人物がいました。
土方歳三率いる新撰組、榎本武揚率いる艦隊、大鳥圭介たちは、北海道で再起を図ります。
1868年10月21日、新政府軍は五稜郭に府庁を定めましたが、10月26日に幕府軍が奪い取ります。
1869年4月9日から幕府軍と、新政府軍の戦いが起こりますが、5月11日土方歳三死去。
18日には榎本武揚が降伏しました。
これにより、1868年1月2日から始まった戊辰戦争は終わりを告げたのです。
まとめ
戊辰戦争は江戸時代から明治時代にうつる境目に生じた、まさに世を一変させる戦いでした。
このように細かく経緯を追っていくと、一つの戦いだけではなかったことがわかりますね。
戊辰戦争により幕府は完全につぶされることになりますが、生き残った旧幕府の人間も新政府軍に合流するなどして、明治の世の中を作っていくことになります。
これこそが明治新政府が望んだ結果だったのです。
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