幕末期に幕府の治安維持部隊として大活躍した新撰組は、幕府が明治新政府軍に倒されるとともに最後のときを迎えます。
もともと京都の治安維持を担当していた新撰組ですが、戊辰戦争(明治新政府軍と幕府軍の戦いをこう呼びます)が京都から江戸、さらに東北地方へと進んでいくにしたがって各地を転戦していきます。
この中で、目覚ましい活躍を見せていた新撰組隊員もひとり、またひとりと倒れていきました。
そして、最終的には戊辰戦争終結の地である北海道の函館で新撰組の戦いも終わりを告げます(最後まで新撰組を率いた新撰組副長の土方歳三もここで命を落とします)
今回は、新撰組最後の戦いの様子と、最後まで生き残りとなった武士はどんな人物だったのか?について解説させていただきます。
[ad#co-1]
新撰組の最後の戦いはどんな状況?
新撰組は、旧幕府軍にしたがって戊辰戦争を最後まで戦い抜きます。
それはどうしても抗うことのできない、歴史の流れのなかでの戦いであったとえいます。
最初は優勢だった幕府軍も、近代的な装備を誇る明治政府軍に敗れていきます。
戦いの舞台は京都の鳥羽伏見から始まり、東海道を転戦して江戸に至ります。
江戸を火の海にして戦う案もありましたが、これは明治政府軍の西郷隆盛と幕臣勝海舟の交渉によって回避されます。
さらにその後、幕府軍は東北の幕府の諸藩と連合しつつ、東北地方から北海道に向かって北へ北へと追いつめられていきます。
あくまでも幕府方として各地を転戦する新撰組は、絶望的な戦局の中で最後の戦いの血である北海道にたどりつくのです。
[ad#co-2]
新撰組最後の戦い「函館戦争」
新撰組最後の戦いである函館戦争が始まり、土方歳三が率いる新撰組は五稜郭に立てこもります。
官軍の軍船「甲鉄」に抜刀斬りこみして船を奪うという宮古湾海戦は失敗しました。
土方歳三も作戦には参加していたのですが、多くの部下を失っただけで終わった戦いでした。
そして、函館に官軍が上陸してきます。
土方歳三は、官軍側がわざと音を立て、包囲していることを偽装していること見抜き、部下を安心させます。
土方歳三の守る二股口は官軍を食い止める善戦をみせますが、大軍を率いる官軍により退却路を封鎖される恐れがでたため、早期の撤退を決断し、五稜郭に戻ります。
[ad#co-3]
我この柵にありて、退く者を斬る!
新撰組最後の戦いで土方歳三は死ぬまで官軍をてこずらせます。
彼は、退却してくる味方に対し馬上で抜刀し立ちふさがり「我この柵にありて、退く者を斬る!」と絶叫したといいます。
そして、その直後に土方歳三は腹部に銃弾を受け斃れました。
土方歳三は函館の地で最後まで官軍を苦しめ、そして死んだのです。
鬼神のごとく戦線を支えていた土方歳三を失ったことで、旧幕府軍は総崩れとなっていったといいます。
彼の死の後、間をおかず旧幕府軍は官軍に降伏しました。
戊辰戦争は終わり、そして新撰組の戦いも終わったのです。
[ad#co-4]
戊辰戦争初期の新撰組
ここまでは戊辰戦争も終わりに近い時期について解説させていただきましたが、戊辰戦争が始まった当初に新撰組がどのように戦ったのかについても見ておきましょう。
新撰組は、戊辰戦争の始まりである「鳥羽伏見の戦い(京都)」にも参加していました。
この戦いは当初は圧倒的に有利と思われていた幕府軍の敗北という結果になります。
負け戦の中、146名いた新撰組は戦死や逃亡者で116名まで人数を減らしていました。
この段階で、井上源三郎、吉村貫一郎といった主力メンバーが死亡しています。
さらに有名な沖田総司は労咳(結核)に倒れ戦いには参加せず、そのまま病死していきます。
江戸への撤退後に、甲州勝沼の戦いで永倉新八は近藤勇と意見が対立します。
永倉新八は、離隊し別行動をとり戦いをつづけ生き残ります。
隊長であった近藤勇は千葉県流山で新政府軍に降伏し、捕縛され斬首されます。
[ad#co-5]
滅びの戦いの中を行く新撰組
隊長であった近藤勇の死後も新撰組は戦い続けました。
宇都宮城の戦いでは土方歳三が負傷し、戦列を一時離れ、会津藩の若松城へと向かいました。
新撰組は会津藩の指揮下に入り、官軍となった薩長連合軍と戦います。
その中で、新撰組は仙台に向かう者と会津に残り徹底抗戦をする者に分かれたのです。
これは隊士の運命を分かったのです。
斉藤一は会津藩とともに、官軍との激しい戦いを続けます。
斉藤一は会津藩が降伏した後も抵抗を止めることなく、戦い続けましたが、会津藩主・松平容保の説得に応じ、官軍に投降します。
新撰組・斉藤一の戦いはここで終わりを告げましたが、新撰組はまだ戦いを続行していました。
新撰組にはまだ土方歳三がいたのです。
[ad#co-1]
新撰組最後の生き残りは誰?
幕府は戊辰戦争に敗れ、明治新政府が正式に発足します。
新撰組も幕府の瓦解とともに終わりを迎えたのですが、実は明治維新後にも生き残った新撰組隊士もいるのです。
ここでは、最後まで生き残った新撰組隊士の事績について紹介していきます。
明治時代後も生き残った新撰組メンバー
明治維新も生き残った新撰組隊士は次の8人です。
明治維新後も生き残った新撰組のメンバー
- 島田魁
- 永倉新八
- 斎藤一
- 中島登
- 田村銀之助
- 市村鉄之助
- 山野八十八
- 池田七三郎
[ad#co-2]
このうち新撰組の幹部だった永倉新八、斎藤一は有名ですね。
明治以降、島田魁は新撰組関する多くの書を残し、新撰組研究に貢献しています。
永倉新八も明治以降は東北帝国大学の剣道部の指導を行いましたが、元新撰組に教わるというのはどういう気持ちだったのでしょうか。
会津で近藤勇と別れた斎藤一も明治以降生き残ったひとりです。
警視庁に勤務し、西南戦争で戦死しています。
そして、新撰組最後の生き残りが池田七三郎です。
昭和13年に90歳で亡くなるまで生きていたわけですら、ラジオ放送が始まり、飛行機が空を飛び、巨大な軍艦が海を行く時代にそれを目にしていた可能性がありますね。
そう考えると、新撰組の隊士はそれほど昔に生きていた人物でないような気がします。
まとめ
歴史は討幕の流れの中、もう個人の刀や、局地的な作戦能力でどうにかなる状態を過ぎていました。
京都で活躍した新撰組でしたが、戊辰戦争に加わり多くの名もなき兵といっしょに死んでいったのです。
函館戦争で斃れた土方歳三の最後の叫びが、新撰組の維持であったのかもしれません。
[ad#co-1]