明治次代の「文明開化」とは、それまでの日本的な物を旧式と、欧米のモノを進んだものとしてどんどん受け入れていくというものでした。
今までの日本的な物を旧式とし、欧米の物を進んだものとしてどんどん導入していったのです。
「文明開化」とはつまり「西洋化」ともいえますが、本当に西洋化することイコール文明が進むことと考えても良いのでしょうか。
今回は、江戸時代から明治時代への移行期に起きた文明開化が、日本文化にどのような影響を与えたのか?について考えてみましょう。
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文明開化の影響とは?具体的に何がどう変わった?
冒頭でも少し触れましたが、日本の「文明開化」とは西洋化を目指した運動のことです。
なぜこのような方向性が日本全体をあげて採用されたのかについて考えるためには、当時の日本が置かれていた政治状況についても考慮しなくてはなりません。
当時の日本は、欧米列強とは不平等条約を結ばれ決して対等な国家とみなされていませんでした。
当時の日本人は、このような「遅れた国」として西洋列強から扱われるのは、日本が近代国家的な社会の仕組みを取り入れていないことが原因であると考えたのです。
近代国家となり強くなるには欧米の考えや文化をどんどん取り入れ、近代化を進めなければならないという明治政府の目標とも一致したものだったのです。
また、そもそも日本人は新しいもの好きな一面がありますから、実利的で便利なものは躊躇なくとりいれていくという社会の雰囲気とも合致する部分があったことも指摘できます。
次の項目では、文明開化によって日本の社会は具体的にどのように影響を受けて変わっていったのかについてみていきましょう。
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ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする
文明開化の影響として象徴的なのが、当時の人々の髪型の変化です。
いわゆる「ちょんまげ」は旧来の風習として法で禁止されます。
「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の悪露がする」の「ザンギリ頭」とはちょんまげを切った今と指して変わらない髪型のことです。
欧米の政治・社会調査、不平等条約の改正のために組織された「岩倉使節団」の団長であった岩倉具視のインパクト抜群の頭も「蛮族の風習と思われる」として途中でばっさりやられます。
そして、西洋からは洋服が入ってきて洋装する人も出てきます。
当時の絵を見ますとガス灯や、馬車、人力車など、江戸時代になかったものがでてきます。
馬車や人力車などは、さほど高い技術が必要なものではありませんが、江戸時代には普及しませんでした。
これは、軍事的理由で道が狭く、悪かったことや、馬子や駕籠かきなどの、既に成立していた職業の人たちを脅かすからです。
実際に天保時代に、馬車導入の提案は行われていますが、産業の変化により失業者が生まれることをと恐れ、却下されています。
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文明開化で食文化は変わったのか?
文明開化の大きな変化として、西洋からパンが入ってきて、肉食もおおっぴらに行うことが出来るようになりました。
実は江戸時代も肉食はおおっぴらではないですが、普通に食べられていたものでした。
それは「薬です」という言い訳で、さまざまな獣肉を料理する店がすでに江戸にはありました。
日本では建前の上では獣肉は禁止でしたが、例えば「牡丹鍋」という言葉が残っているように「イノシシの肉」を食べていました。
これは、花札の6月が牡丹とイノシシが書かれていることが由来のという説もあります。
肉をおおっぴらに食べることが出来たのはいいのですが、パンはあまり評判よくありませんでした。
そもそもは、軍隊用の保存食として導入しようとしたのですが、軍隊でも嫌われました。
日本人はコメの米好きにはさすがの「文明開化」も勝てなかったようです。
ただ、日本人の木村安兵衛と息子の木村英三郎が1874年(明治7年)に「アンパン」を考案し、大ヒットします。
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海外が評価した日本画がボロクソ
文明開化とは西洋のモノが優れており、日本のモノは遅れているという風潮を生み出していきます。
生活に密着したものは、変えようと思ってもそうは変わりません。
服装などは昭和初期まで和装の人は珍しくはありませんでした。
しかし、生活に直接関係ない芸術には大変な変化がおきます。
日本の絵は遅れていると日本人が自分たちの芸術を見捨ててしまいます、日本の美術品はごみ屑の様な値段で海外に叩き売られてしまします。
幕末期からヨーロッパでは日本絵画ブームがおきており「ジャポニズム」といいます。
このような動きを当然一般人は知りませんでした。
日本の芸術を守ったのは外国人のフェノロサと、それに同調した岡倉天心でした。
そして、江戸時代に気づきあげられた日本の絵の技術も変化していきます。
日本の浮世絵師たちは、西洋の技法をとりいれ「開花絵」という風景画を多く取りこんだ絵を描くようになっていきます。
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文明開化で政治、宗教にはどんな影響があった?
まず、文明開化では知識人の間に「啓蒙思想」という生まれたばかりの人権思想が入ってきます。
人間には生来より生きる権利があり、平等であるとする考え方です。
そして、キリスト教も解禁されます。
最初は明治政府ではキリスト教解禁を拒んでいたのですが、欧米の圧力には抗しきれなかったようです。
そもそも、人権思想とキリスト教は親子のようなものです。
西洋の近代的な思想の源泉は元をたどっていけばキリスト教であるか、そのキリスト教を否定する立場から生まれたモノであり、キリスト教抜きでは考えられない物だったのです。
文明開化の中、啓蒙思想とキリスト教はどうなっていったのでしょうか。
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キリスト教は解禁されたけど
文明開化の影響で、教育を受けた層の中にはキリスト教に興味を持つ者は増えたのですが、一般国民にキリスト教は受け入れられませんでした。
福沢諭吉が「教国教会論」を主張するなど、明治の上層階級の中では一定数がキリスト教に改宗するという動きはあったのですが、日本国全体ではほとんどキリスト教信者は増えませんでした。
キリスト教は解禁になったはずなのに、民衆が勝手に、問題なしとされたキリスト教徒を襲撃する問題がキリスト教におきていたのです。
文明開化という言葉がありますが、ではそれまでの日本人が非文明人だったわけではないのです。
日本でキリスト教を布教するとき「信じる者は救われる」が最大の問題となったのは、初めて日本にキリスト教が伝来してからかわなかったのです。
キリスト教の教えであれば、キリスト教を信じていないご先祖様は全員地獄に落ちています。
この考え方は日本人に受け入れられるものではなかったのです。
「文明開化」といいますがある意味日本人の方が文明的で合理的な結論を出しています。
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新聞、文芸の文明開化
文明開化によって西洋の啓蒙思想は受け入れられていきます。
これは、日本の文芸にも大きな影響を与えていき、言文一致運動が起きるのです。
それまでの日本では基本的に書き言葉と、話し言葉は全く別の形でした。
中にはあえて「話し言葉」で表現する文芸もありましたが、それは一段低い文芸とみなされたのです。
文明開化より、漢文調の書き言葉ではない、小説が生まれていきます。
そして、文明開化は多くの啓蒙的な出版物を生み出します有名な福沢諭吉の「学問のすすめ」もそのひとつでしょう。
更に、自由民権運動の中で、さまざまな新聞が発行され啓蒙思想を広め、その新聞には小説も連載されます。
新聞小説が明治政府批判や、文明開化によって入ってきた啓蒙思想を広げる役割を果たしました。
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人々の政治意識は変わったのか?
文明開化はかなり急速に日本人の政治意識を変化させていきました。
文明開化によって、日本人全体の意識が一気に変化するということはなく、これはどんな思想や考え方の変化と同じくある程度の時間をかけ変化をしていきます。
特に西洋より入った啓蒙思想の影響により、政治を動かすまでの自由民権運動が起きるのです。
自由民権運動も、文明開化によってもたらされた西洋の人権思想・啓蒙思想が無ければ成立しない物です。
文明開化から、そのような運動を経て、日本人の政治に対する意識は変わり、そして「自分は○○藩の者である」という幕藩体制的な思考の縛りの中に合った意識が「自分日本人である」とする国家を意識できる日本人に変化していったのではないでしょうか。
国を意識し、自分を日本人と意識できなければ、国の政治を考えることもできないのですから、これは非常に重要なことです。
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まとめ
「文明開化」は日本の西洋化運動でした。
ごく簡単に言えば西洋の文化をひたすら取り入れた時期といえますが、歴史上の出来事は、現代の視点から単純に批判すればよいというものではありません。
本文でも解説させていただいたように、なぜ当時の日本人はこのような選択をしなければなかったのか?を視点として考えなければならないということですね。
また、幕末から明治にかけて、西洋文明と出会った日本人はその文面の成し遂げた技術や成果物にやはり驚いたという側面もあります。
生活を良くしたい、便利にしたいというのはどの国の国民でも共通に持っている重いですから、文明開花による西洋化と、日本の近代化とは同じ方向性を向いていたといえます。
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