落語や歌舞伎などで有名な「妲己のお百」。
悪女や毒婦なんて言われる彼女は、実は実在の人物なんです。
耳にしたことはあるけど、よくは知らないという方もひょっとしたら多いのではないでしょうか。
今回は妲己のお百について、史実と怪談噺の違いなどについて紹介させていただきます!
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妲己のお百とはどういう話?
江戸時代中期から、妲己のお百は小説、講談、落語、歌舞伎などあらゆるジャンルの題材として登場します。
実在の人物でありながら大きく脚色され毒婦となってしまったのはなぜなのでしょうか。
それは彼女の人生の生き方と大きく関係がありそうです。
「毒婦」お百
(※7代目立川談志:妲己のお百)
人をおとしいれたりだましたりを平気ですることのできる悪い女を意味する毒婦。
その毒婦であるお百を一躍有名にしたのが、秋田藩のお家騒動です。
京の祇園で遊女をしていたお百は、流転の末秋田藩用人那河忠左衛門の妾になりますが、お家騒動に巻き込まれ忠左衛門が逆臣方として磔に処せられてしまいます。
妲己とは
お百の呼称とされて名前の頭につけられている「妲己」とはどういう意味でしょうか。
妲己とは中国の歴史に登場する殷の紂王の妃の名前です。
歴史上まれにみる悪女として知られています。そのことから、悪女を表す代名詞として妲己という言葉が使用されるようになりました。
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本当にお百は毒婦だった?史実の女性像
お百は実在の人物ですが、本当にこんなにも悪人だったのでしょうか。怪談や妖怪にまで変貌していくお百の実像とは?
お百の旦那であった那河忠左衛門が逆臣方で磔になってしまったことで、お百も逆臣に名を連ねていたという事実が要因になったようです。
しかし実際のお百は、お家騒動も奉公人として「お構いなし」として放免され、江戸で所帯を持ち暮らしています。
この騒動の後、お百は妲己のお百として世の中に登場するのですが、それはかなりの脚色を加えられた毒婦としてのお百でした。
講談の中のお百
毒婦としての、お百はどんなものだったのでしょう。
講談の中では、秋田藩と関わる前にもストーリーがあります。
難波の海鮮問屋「桑名徳兵衛」の元へ女中奉公に入ったお百は、徳兵衛の妾となり本妻を追い出し贅沢三昧の日々をおくります。
財産を使いつくした徳兵衛とお百は金に困り江戸へ出ます。
そこで大泥棒と知り合いますが、お百は徳兵衛を捨て大泥棒の妾に。
芸者に出ていたお百の元へ、徳兵衛がみじめな姿で現れます。
お百はその徳兵衛を惨殺。
徳兵衛は人魂となって、お百の前に現れますが、怖がるどころか「暗い道を照らしてくれてなんて親切なお人だ」と言ってのける始末!
この後秋田藩に入り込むことになる展開です。
お家騒動の後も、悪行三昧を繰り返し、結果悲惨な死を迎えることになるのですが、その悪行振りのストーリーはいろいろと脚色されて様々な展開があるようです。
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特殊な人生が悪いイメージに?
元遊女で、大阪の豪商鴻池屋の妾からはじまり、役者と密通して放逐されたりと男性を渡り歩き、流転を繰り返した女性ですから、藩の用人の妾としても特殊な目で見られていたのは事実でしょう。
関わった男性が特殊な人物ばかりであるというのも目立ってしまった理由かもしれませんね。
まとめ
本当のお百は、脚色に脚色を重ね続けられ、実際どんな性格でどんな人生を送ったのかわかっていません。
記録によると12歳で売られ14祭で遊女となったお百は、才色兼備な女性であったのは確かなようです。
豪商や藩の用人が見染めた女性が毒婦であったのかどうかは歴史の謎です。
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