2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」では、篤姫と西郷隆盛のラブロマンス的な関係も描かれることが予想されます。
しかし、史実では本当にドラマや原作で書かれるようなことがあったのでしょうか。
「ふたりとも薩摩出身なので、ひょっとしたらプライベートな関係に進むことができたのでは?」と思われる方もおられるかもしれませんね。
今回は、篤姫と西郷隆盛の関係について考察していきましょう。
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西郷隆盛と篤姫は恋人同士だったの?

(篤姫の幼少期に2人が恋仲だった可能性はあるが…)
大河ドラマ「西郷どん」で注目されている篤姫と西郷隆盛の関係。
※2018年大河ドラマ「西郷どん」では北川景子さんが篤姫のキャストです。
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篤姫が西郷に淡い恋頃を感じ、お互いに意識できるかどうかの惹かれあうものがあり、その思いが後に(ドラマのかなり後半になると思いますが)江戸城の無血開城につながっていくという展開になるみたいですね。
しかし、史実からみると篤姫と西郷隆盛は恋仲になるような間柄ではないです。
確かに篤姫は西郷隆盛と同じ薩摩藩出身ですが、今のところふたりの関係を示すような、ものは状況証拠を含め何もないという感じですね。
(もちろん、男女の関係がそうおおっぴらに史実に残るというようなことはないでしょうから、実はそういうこともあったんだ!という可能性は否定できませんが)
史実としての信ぴょう性は微妙なものの、「火のない所に煙は立たない」ともいいますよね。
そもそもなぜ「篤姫と西郷隆盛のラブロマンス」が描かれることが多いのか?についても見ておきましょう。
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なぜ、篤姫と西郷隆盛の関係がうわさになるの?
篤姫は幼少期を薩摩藩(現在の鹿児島県)で過ごした後、徳川将軍の妻として江戸にのぼることになります。
一方で、西郷隆盛は新政府軍のリーダーとして軍隊を率い、将軍と戦う立場になります(将軍が住む江戸城を責めます)
このとき、本来であれば西郷隆盛は江戸を徹底的に軍事的に制圧し、江戸城についても火の海にする予定でした。
しかし、このタイミングで篤姫から西郷への説得という史実があるのです。
篤姫と西郷隆盛の手紙
篤姫は、幕府存続のために故郷の薩摩藩に対し、多くの手紙を送っています。
その中には薩摩藩の中心人物となっていた西郷隆盛もいました。
そういったつながりはあります。
※ドラマでは篤姫が西郷に対し「西郷、一緒に逃げよう」「このまま私を連れ去ってほしい」と安政の大地震の中、懇願します。
西郷も「わかいもした」とつぶやくように答える―― というシーンが描かれることがあります…。
それでも、ここで駆け落ちしてしまいますと「歴史ドラマ」ではなく「歴史改変ドラマ」になってしまいます。
ただ、ふたりの心の中にはそういった思いがあったという演出をドラマではおこなっています。
心の描写ですからエンタメの面白さとしてはありではないかと思います。
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篤姫はどんな女性だったのか
そもそも、篤姫とはどのような女性だったのか。
歴史の登場人物、特に政治史に女性が関わってくるのはそれほど多くはないですね。
その数少ない女性のひとりが篤姫です。
彼女は江戸幕府の終わりに、公武合体政策という幕府勢力を残しつつの改革という流れの中で、徳川家に輿入れします。
正式には「天璋院・篤姫」と呼ばれます。
なぜ、篤姫は江戸将軍家に嫁いだの?
篤姫は島津家の分家の出身で、本来であれば将軍に輿入れできる身分ではありません。
それを、島津斉彬は正室での輿入れのため、篤姫を自分の養子にします。
更に、篤姫を近衛家の養女という形にするため、朝廷へのつながりを強化するための工作を行います。
そして、篤姫は公武合体政策(朝廷と幕府の融和政策)の方針の中で、将軍・徳川家定の正室となります。
幕末期の激動の中、徳川家存続のため、篤姫は自分の持っている薩摩藩との繋がりをつかい、西郷隆盛には無血開城のヤン願書を渡しています。そのときに、西郷はその願いを聞いたのです。
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さらにくわしく!西郷隆盛と篤姫は恋仲だったのか?
まず、この時代の人たちことを考えなければいけないでしょう。
一般の民衆は別として、身分の高い人たちにとって「恋愛」というものが、ほぼあり得なかった時代が江戸時代です。
とくに、西郷隆盛と篤姫は身分が違いすぎます。
まず「恋愛」という気持ちが生じにくい時代と身分だった女性が、ただ同郷で警護任務など周辺に存在していた西郷と恋仲になるのは考えづらいです。
篤姫と西郷隆盛の接点はゼロではない
篤姫と西郷の接点はゼロではありません。
しかし、それはあくまでも政治上のことです。
個人的な恋心に発展する余地はなかったと考えるのが普通です。
しかも、篤姫は、西郷隆盛にとっては自分を抜擢した島津斉彬の養女でもあるわけです。
西郷隆盛の方からは恋心の抱きようのない存在であったといえるでしょう。
篤姫は、政治の「コマ」でありならも、高貴な身分の存在なのです。
職務にまい進する西郷にとって、篤姫は「公武合体」の中のパーツであり、女性としてみるのは難しかったのではないかという状況にありました。
また、残っている篤姫関係の史料もほとんどが、公的、政治的な文章での西郷との接点を示す物ばかりなのです。
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西郷隆盛と篤姫の本当の関係は?
では、史実ではふたりはどのような関係があり、どんな接点があったのか。
また、幕末という激動の時代の中、西郷と篤姫はどのような行動をとり、何を目指していたのでしょう。
そして、どのように生きていたのでしょうか。
西郷と篤姫はいつ出会ったのか
西郷と篤姫の最初の接点は、島津斉彬による朝廷工作で篤姫を公家である近衛家の養女にするという動きの中にありました。
篤姫の近衛家の養女計画は、朝廷に対する工作として、西郷隆盛が行っていたのです。
篤姫を養女にするということで、近衛家に直接工作を行ったのは、西郷隆盛だったのです。
そして、篤姫が徳川家に輿入れする際には、すでに江戸詰となっており、薩摩藩邸を拠点とした諜報活動をしていました。
このとき、篤姫が江戸の薩摩藩邸にいた時期もありますので、顔を合わせる程度の接点はあったかもしれません。
しかし、西郷隆盛にとっては、朝廷工作のための大切な「道具」です。
言い方はあまりにもあからさまではありますが、当時の男性の考え方とすればこのように考えているのが普通ではないでしょうか。
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激動時代の流れの中で西郷と篤姫は
そして、1856年に篤姫は徳川家に正室として輿入れします。徳川家定の正妻となったのです。
公武合体政策という朝廷と幕府を結びつけ、薩摩中心とした雄藩連合が、政治の主導権を握るという計画でした。
西郷の盟友の大久保利通も中心となって動きます。
しかし、その計画は徳川慶喜と会津藩などの強力な佐幕勢力の反発により頓挫します。
西郷隆盛、大久保利通を中心とした薩摩藩はここで、大きく舵をきります。
「討幕」です。
幕府を倒し、完全に政権を奪い取る方向に進むことになります。
政治勢力としての江戸幕府を潰すことが、近代日本を創るためには必要であると決心するしかなかったのです。
それは、徳川家に嫁いだ篤姫も巻き込むことでした。
将軍の妻だった篤姫
官軍として、薩摩藩、長州藩を中心とする勢力は、幕府打倒に向け動きます。
そして江戸城にその軍勢がせまってきます。
そのとき、西郷に無血開城の嘆願書を渡したのは篤姫です。
そして、それを快諾したのは西郷でした。
NHK大河ドラマ「西郷どん」にあるような心理描写の元ネタとなるような動きはこの史実の部分を膨らませたのではないでしょうか。
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江戸無血開城後の篤姫
江戸城明け渡しの後の篤姫は、故郷の薩摩に帰ることなく、江戸に留まりました。
とくに、勝海舟と連れ会い、芝居見物などに出かけていたという史料は残っています。
篤姫にとっては、なにをするにも窮屈な大奥暮らしよりも市井の生活の方が伸び伸びとして、楽しんでいたのかもしれません。
篤姫は家族とも隔離される大奥の生活から、より家族と近い場所で生活できるようになり、子どもの教育にも力をいれました。
篤姫は、激動の歴史に翻弄されながらも、ただ流されるだけではなく、名を残した女傑であったといえるのではないでしょうか。
49歳で亡くなる篤姫
篤姫は49歳で亡くなります(死因は脳卒中といわれます)
しかし、お風呂場で転び頭を打ったということですから、現代の医学で細かく調べれば別の死因ということになるかもしれませんが、とにかく頭を強打して死んでしまったのです。
葬儀には1万人の人が集まりました。それだけ、多くの人に愛されていたのでしょう。
まとめ
現時点で分かっている史実上のことで判断すれば、西郷隆盛と篤姫の恋というのは、やはりフィクションの世界のことです。
当時の時代環境や、残された資料や、西郷隆盛の行動、篤姫の行動を追いかけても、そのような証拠は歴史の事実の中からは見つけることはできません。
ただ、大河ドラマのエンタメ性として、無血開城時の逸話を膨らませ、過去においても仄かな恋心をお互いに持っていたという演出は「上手い嘘」として楽しめる物だと思います。
さらにいうと、史実は変化していきます(新しい史実が見つかることはよくあることです)
今の定説が、絶対ではないのです。教科書ですらしょっちゅう書き換わりますからね。
今後、西郷隆盛と篤姫について、新たな史料が見つかる可能性も100%ないとはいいきれないですね。
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