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歴史人物のお話

西郷隆盛の最後の戦:誰と戦いなぜ負けた?最期の言葉や切腹した場所も紹介!

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西郷隆盛は江戸幕府を倒して明治政府を作った最大の功労者ですが、江戸幕府を倒した後にはなんと自ら反乱を起こしてしまいます(これが西南戦争)

この記事では、西郷隆盛の最後の戦である西南戦争について簡単にわかりやすく説明するとともに、彼の最期の言葉や切腹時の様子などについても紹介します。

大河ドラマや小説をきっかけに西郷隆盛に興味を持たれた方は、ぜひ参考にしてみてくださいね。

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西郷隆盛の最後の戦い(西南戦争)ってどんな戦い?

西郷隆盛 最後

(↑当時のフランスの新聞記者が描いた絵:中央のひげを生やした白髪の人物が西郷隆盛)

上でも少しだけ説明しましたが、明治新政府軍を率いて江戸幕府を倒した西郷隆盛は、明治政府が成立してから9年後に突如反乱を起こします。

>>西郷隆盛の最後の様子(切腹の様子など)から知りたい人はこちらからどうぞ

当時の西郷隆盛は、明治政府の「陸軍大将」という役職についていましたから、今でいえば自衛隊のトップのような人です。

わかりやすく言えば、つい最近まで味方として大活躍してくれていた軍隊の総司令官が、いきなり敵になって反乱を起こしてしまったような話ですから、当時の政府の首脳陣としてはとても困ったでしょうね。

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反乱を起こした西郷隆盛と戦った明治政府のトップ=大久保利通

西郷隆盛 最後

(↑西郷隆盛の反乱を鎮圧したのが大久保利通:2人はともに貧しい下級武士として育った幼なじみだった)

ちなみに、西郷隆盛が反乱を起こしたときに明治政府のトップだったのが大久保利通です

西郷隆盛と大久保利通は同じ釜の飯を食って育った友人どうしで、江戸幕府を倒すときには一緒に戦った盟友です。

薩摩(現在の鹿児島県)の田舎町で育った友達同士の2人が、ともに日本を2つに割る勢力のトップとして戦ったわけですから、ものすごい話ですよね。

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西南戦争が起きるまでの時代の流れを簡単にわかりやすく

西郷隆盛 最後

西郷隆盛が明治政府に対して反乱を起こすまでの時代の流れについて、理解しておきましょう。

ものすごく簡単に説明すると、当時政府のトップだった西郷隆盛は、「征韓論(朝鮮半島への進出)」という主張をしたけれど認めてもらうことができず、政府を辞めてしまいます。

しばらくは故郷の鹿児島でのんびりしていた西郷隆盛ですが、彼のまわりで明治政府に不満を持っていた人たちに反乱軍のリーダーとしてまつりあげられてしまい、とうとう明治政府への反乱を起こすということになってしまったのでした(この反乱が西南戦争です)

当時の西郷隆盛は政府のトップ

西郷隆盛は江戸幕府が倒れて明治新政府ができたとき、陸軍大将という軍隊での役職につくとともに「参議」という政治上の役職にも就きます。

西郷隆盛の明治政府での役職

  • 軍隊での役職=陸軍大将
  • 政治での役職=参議

参議というのはごく簡単にいえば当時の政治のトップです(当時まだ「総理大臣」という役職はなかったので、その代わりのようなものです。ちなみに参議は複数人います)

木戸孝允や板垣退助といった当時の政治スターたちが選ばれていますが、西郷隆盛もこの中の1人として政治に参加することになります。

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当時の政治の大問題=征韓論

当時の明治政府で話題になっていた問題が、征韓論(せいかんろん)という問題です。

これは簡単にいえば朝鮮半島(現在の韓国)に戦争をしかけるべきかどうか、という問題ですね。

征韓論をもっとも強硬に主張したのが他ならぬ西郷隆盛で、結果として征韓論が認められなかったことが原因となり、西郷隆盛は政府を辞めてしまうことになったのです。

西郷隆盛はその直後に西南戦争によって明治政府に対して反乱を起こしていますので、この征韓論の主張が通らなかったことが、西郷隆盛を反乱へと導く直接的な理由といえるでしょう。

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なぜ、西郷隆盛は征韓論で朝鮮半島に進出しようとしたのか?

西郷隆盛 最後

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今の感覚でいえば「戦争をしかけるなんてよくないよ」と思ってしまいがちですが、当時は欧米の勢力がアジア圏をどんどん食い物にしている時代ですから、日本も自分の身を守るためには朝鮮半島を通って中国大陸に進出する必要を感じていました。

「自分の身を守るために」というなら、わざわざ朝鮮半島や中国大陸に出ていかなくても、日本に閉じこもって戦えばいいのでは…と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、現実的には「日本に閉じこもって戦う」というのは負けてしまう可能性が非常に高いのです。

日本が朝鮮半島に進出しようとした理由は、大きく分けて次の4つがあります。

日本が朝鮮半島に進出しようとした理由

  • ①島国はものすごく守りにくい
  • ②朝鮮に開国しよう!と提案したのに、ものすごく失礼な態度で拒否された
  • ③大量の失業者(元士族)の不満をそらしたい
  • ④資源が欲しい

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これらは西郷隆盛が征韓論を強硬に主張した意味を理解するうえで重要ですので、以下で少しだけくわしく説明します。

>>この部分はあんまり興味ないや…という方は西郷隆盛の最後の様子へジャンプどうぞ

①島国はものすごく守りにくい

日本という国は島国ですから、国全体が海に囲まれています。

海に囲まれているということは、敵からすると、四方八方どこからでも船で上陸することができますから、非常に国を守りにくいのです(当時は現代のように戦闘機やレーダーはありません)

例えば、北海道からロシアが船で上陸してきた!ということで戦っていたら、そっちに夢中になっているうちに鹿児島からフランスが攻めてきていた…。おまけに新潟からはイギリスが、山口県からはオランダが…なんてことになってしまうと手のつけようがなくなってしまいますよね。

この点、中国大陸に進出することができれば、当時は外国の勢力が陸地続きで領土を持っている状態でしたから、比較的守りやすいというわけです。

同じような戦略をとっていた国が日本と同じく島国であるイギリスです。

イギリスは明治当時の世界最強の国ですが、イギリス本土の外にたくさんの植民地を作ることでイギリス本土にまで敵がやってこないようにするという戦略をとっていました。

日本もアジアでこれと同じような戦略をとろうとしていたわけですね。

日本の東は拾い太平洋が広がっていますので基本的には敵は来ませんから(当時まだ航空機はないので、アメリカの西海岸から直接的に日本に軍艦がやってくるのはとても大変でした)日本本土よりも遠い場所(朝鮮半島や中国大陸)に国境線を作ることで、本土の防衛をよりやりやすくしようと考えていたのです。

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②朝鮮に開国しよう!と提案したのに、ものすごく失礼な態度で拒否された

「ものすごく失礼な態度で拒否されたから戦争をしかける」というとなんだか冗談のような話ですが、これは当時、征韓論の非常に重要な根拠となっていました。

明治政府が成立した直後、日本は朝鮮の王様に対して「開国して貿易をしましょう」と提案したのですが、朝鮮の王様は「お前らみたいな野蛮な連中とはつきあわない」ということで拒否されたという経緯があったのです。

※天皇の「皇」という字が間違っているから外交文書を受け取らないとか、「日本人は野蛮人なので、朝鮮人の中で日本人と交友するものは処罰する」という法律を作るといった態度をとられたことなどが原因です。

これを知った世論は「なんてやつらだ!」ということで西郷隆盛の征韓論に賛成したというわけです。

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③大量の失業者(元士族)の不満をそらしたい

明治新政府は、江戸幕府を倒すための戦いで幕府側についた藩を大量につぶしています。

藩には当然ながらそこに所属していた武士たちがいましたから、戦争で死ななかった人たちはほとんどが失業者になってしまいました。

また、当時の明治政府はとにかくお金がない状態ですから、人件費を節約するために江戸幕府時代の武士の仕事をどんどん取り上げていきます。

江戸幕府時代には武士たちは何もしなくても「俸禄(ほうろく)」という形でお給料をもらえていたのですが、明治政府は「働く人だけがお給料を受け取るべきだ」という考え方のもと、元武士たちのお給料をどんどんカットしていったのです(秩禄処分と呼びます)

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こういう新しい政策を進めていった結果、街には「元武士のエリートなんだけど、仕事もお金もない」という人たちがあふれるようになります。

彼らは能力的には優秀なので、こういう人たちを朝鮮半島に軍隊として送り込むことで、不満をそらそうとしたのです。

戦争をするとなるとたくさんの若くて健康な人たちが必要になりますので、元武士たちはもってこいというわけですね。

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④経済的な利益が欲しい

また、朝鮮半島や中国大陸には資源がたくさんありますから、政治的に進出してそれらを手に入れることは国力の増強につながるはずでした。

実際、当時の中国大陸は欧米列強によって分割されているような状態にあったので、日本もここに加わって、経済的利益を得られるようにしたいというわけですね。

また、上でも見たように朝鮮や中国を貿易相手として商売をすることができれば日本の特産品を売るなどして利益を得ることもできます。

海外進出によって経済的な利益を得ることは、やがて起こるであろう欧米列強との戦争の準備のために非常に重要なものだったのです(実際、数十年後には日本は朝鮮半島や中国大陸に進出し、鉱山資源や石油資源をある程度確保することができたため、ロシアとの戦いでぎりぎり勝利することができました)

西郷隆盛が征韓論で朝鮮半島や中国大陸への進出を主張したことは、後に来る欧米列強との戦いに備えておくという目的があったことも間違いないでしょう。

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西郷隆盛の最後の言葉「晋どん、もうここいらでよか…」

西郷隆盛の最後

西南戦争に敗れ、鹿児島県「城山」にてその生涯を終えた西郷隆盛。

死を覚悟した彼は、そばにいた別府晋介に向かってこう告げます。

「晋どん、もうここいらでよか…」

心の奥底では明治政府軍と戦うことを望んでいなかった西郷ですから、自分が長く生き残るほど戦いが長引いてしまうことをつらく思ったのかもしれません。

彼の最後の言葉に別府は「はい」とうなずき、「ごめんやったもんせー」と叫び涙ながらに西郷の首を切り落とします。

自分がもっとも尊敬する人物の介錯(切腹の手伝い)をする別府晋介の気持ちを思うと、胸にせまるものがありますね。

こうして西郷隆盛の49年にわたる壮絶な人生は幕を下ろしました。

政治家としての西郷隆盛

※西郷隆盛と大久保利通が主人公の小説
↓ ↓ ↓ ↓ ↓

西郷隆盛には、武士であると同時に名だたる政治家としての一面もありました。

明治政府においては参議と陸軍大将、そして天皇を守る部隊のリーダー「近衛都督」の役職にも就いていたことが知られています。

これらの役職は事実上の「政府のトップ」でした。

西郷は東京でこれらの職を歴任した後に故郷の鹿児島県に帰り、新政府に不満をもつ若者(士族)にかつぎあげられて西南戦争を戦うことになります。

※征韓論とは?西郷が職を辞すきっかけとなった論争

現代の世界でいえば、総理大臣を何年も務めた人(例えば安倍晋三さん)が故郷に帰って日本政府に対して反乱を起こすというような一大事だったわけです。

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西郷隆盛の最後の地「城山」とは?

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不平士族の若者たちにかつぎあげられてしまい、やむを得ず武器を取り、明治政府軍と戦うために軍を率いた西郷隆盛。

これが日本国内では「最後の内乱(日本人同士の戦い)」となる西南戦争です。

西南戦争では、九州各地において半年にわたる激戦を繰り広げるものの、どんどん西郷軍の敗戦が濃厚になっていきます。

最終的には決戦の地である鹿児島県城山地方において、「城山の戦い」が繰り広げられます。

昔ながらの示現流剣術(日本刀)での切込み作戦を基本とする西郷軍と、最新鋭の兵器(西洋から導入された鉄砲や大砲)を駆使する明治政府軍の戦いは、明治政府軍の圧倒的な勝利によって終結するのです。

城山の戦いでの敗北後も生き残った西郷は、上でも述べた別府晋介の介錯によって最期を迎えることになります。

城山の近辺は西郷をしのぶ歴史史跡がたくさんある

なお、西郷最後の地である城山は、現在は錦江湾から美しい桜島をのぞむことができる観光地となっています。

城山には上野の西郷像と対をなす西郷像(この像は西郷夫人の糸が「もっとも自分の主人の生前の姿に近い」という感想を述べたことでも有名ですね)が立っています。

そのほかにも西南戦争末期に5日間にわたって立てこもったといわれる「西郷洞窟」や、西郷が好んだ言葉「敬天愛人(天を敬い、人を愛するの意味)」の文字を刻んだJR日豊本線の城山トンネル鹿児島駅入口、さらに西郷が薩摩藩士を養育した私学校跡などがあります。

城山近辺の歴史史跡については、こちらの城山観光ホテルの観光地解説が参考になります。

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私学校の内乱「西南戦争」のきっかけとは?

明治政府を辞めた後、故郷鹿児島にて陸軍養成施設「私学校」を設立した西郷隆盛。

明治政府に武士の特権を次々取り上げられてしまい、不満が募っていた士族の反乱を緩和させるためにこういった組織を作ったともいわれています。

しかし西郷隆盛の努力もむなしく、私学校の規模が大きくなるにつれ政府のスパイが潜り込むなどのトラブルが勃発。

そんな政府の対策に激怒した私学校の生徒たちの一部が、武器を奪うために政府の火薬庫を襲撃してしまいます。

この事件が、のちに起こる西南戦争のきっかけとなりました。

西南戦争中の西郷隆盛

私学校の生徒たちの火薬庫襲撃の知らせを聞いた西郷隆盛は「しまった」と叫んだそうです。

自分を慕いついてきてくれた若者たちの起こした事件がきっかけで内乱が始まってしまうなど、自身の読みの甘さを悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。

安易に力による問題解決を望まず、かつては江戸の無血開城までも成し遂げた西郷隆盛。
そんな彼の平和を望む想いは私学校の生徒に伝わらず、また伝え切れなかったことを彼は悔やんでいたともいわれています。

もはやこの時の西郷は、時代の流れに身を任せることしかできなくなっていました。

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まとめ

清廉切実で万人に愛された西郷隆盛。

その素晴らしい功績は西南戦争終結後にあらためて天皇から評価され、歴史上の偉人として現代においても語り継がれています。

また最後の地である鹿児島「城山」も西郷隆盛ゆかりの地として有名ですので、鹿児島へ行く機会のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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