明治新政府軍の実質的なリーダーとして活躍した西郷隆盛に対して、幕府軍を指導したのが幕臣勝海舟でした。
明治新政府軍は京都の鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争(明治新政府軍と幕府軍の戦いを総称してこのように呼びます)を勝ち進み、ついに幕府の本拠地である江戸城の攻撃にとりかかります。
しかし、江戸の町は当時の世界でももっとも人口の多かった大都市です。
この大都市で戦いが発生すれば非戦闘員である市民に多くの犠牲が出ることは確実でした。
これを避けるため、明治新政府軍のリーダー西郷隆盛と、幕府軍のリーダー勝海舟は会談を行います。
この会談の結果として、2人は江戸城無血開城を成し遂げることになるのです。
以下、西郷隆盛と勝海舟の関係についてくわしく見ていきましょう。
[ad#co-1]
西郷隆盛と勝海舟の関係:お互いをどう評価していた?
西郷隆盛と勝海舟は、お互いを高く評価していたといわれます。
新政府側と幕府側、ことなる立場の関係でありながらも、二人が持つ人としての魅力や時代を見通す先見性、胆の据わり方などをお互いが認めあっていたためです。
薩摩藩藩主・島津斉彬の右腕として、薩摩藩の中心人物に成長していく西郷隆盛。
列強諸国に取り囲まれている日本の将来を心配している西郷の日々に起こったのが、ペリー提督率いる黒船の来航です。
諸外国の力を知り、それぞれの思想で動きだす諸藩。
その中でも、大きな力を持っていた長州藩は、「禁門の変」を起こしたり御所に攻撃を仕掛けようしたりして、天皇に反旗を持つ朝敵とみなされました。
幕府の命令により西郷隆盛は長州藩の征伐に乗りだします。
その彼に「今は、そんなことをしている場合じゃない」と諭したのが、幕臣・勝海舟です。
西郷隆盛は幕府の命令により行動を起こしています。
その西郷に対し、「それは、ダメ」といった勝海舟の度胸もさることながら、それに応じて討伐軍を解体した西郷隆盛の度量も見事なものです。
[ad#co-2]
西郷隆盛と勝海舟の出会い
西郷隆盛と勝海舟の最初の出会いは、第一次長州征伐のときです。
幕府軍の総指揮官・西郷隆盛が大阪に滞在中の勝海舟のもとを訪れたのは、当時の海軍奉行・勝海舟に、長州征伐に対する幕府の方向性を確認するためでした。
このことは、それだけ幕府内部の足並みがそろっていないことを示しており、西郷自身もイライラが募っていたのかもしれません。
勝海舟は、幕府に仕える身でありながらも幕府に対し、苦言や批判をおこなった気骨のある人物です。
幕府という組織の中では、異端で使いづらい人物であったにもかかわらず、幕府の要職や江戸城無血開城の会見に起用されていることは、勝海舟の豊富な知識や先見性、人としてのスケールの大きさを示しているといえるでしょう。
面会した西郷隆盛に「幕府はもうダメだろう。私欲を捨てて国難にあたる人物がいないよ。
[ad#co-3]
だから、力のある諸藩が合議制で国を治める体制を作る必要がある」と勝海舟は伝えます。
この言葉は、間接的にせよ西郷を討幕へと導いた可能性を含んでいます。
「君君たらずとも臣臣たれ」忠義第一の武家社会においての勝の言葉は、幕府に行き詰まりを感じていた西郷に衝撃を与えたことでしょう。
西郷隆盛が面会後に抱いた勝への評価は高く、それは盟友の大久保通利に宛てた手紙で伺い知ることができます。
手紙には、「驚くべき人物。知略の深さは底知れず、佐久間象山を超える英雄肌の傑物」と評して、深く感銘を受けたことを伝えています。
勝海舟も西郷に対して、胆の据わり方が大きい人物の印象を受け「大胆識」と評し、後に横井小楠とならぶ「天下で見たおそろしい人物」の一人に挙げたほどです。
[ad#co-4]
西郷隆盛・勝海舟が江戸城無血開城を実現した理由
江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟のお互いに認め合う関係があったから実現した。
西郷隆盛が率いる新政府軍の江戸総攻撃がはじまるギリギリのタイミングで、江戸城無血開城は決まり江戸は戦渦に巻き込まれずに済みました。
江戸が戦場になることは、庶民など多くの人々が命を失うことを意味します。
また、日本の中心地が乱れることは、国力の低下を招き諸外国に侵略の機会を与えることにも繋がります。
勝としては、何としても戦を防がねばならず、強硬派の西郷も庶民を巻き込み、国力を低下させることは本意ではなかったでしょう。
西郷にとって勝は、自分の進む道を示唆してくれた人物です。
また、勝も西郷の先見性や懐の深さを良く知っています。
互いに認めた関係があればこそ成しえた、江戸城無血開城といえるでしょう。
[ad#co-5]
江戸城無血開城の会見時のエピソード
江戸城無血開城の会見では、実際にはかなり険悪なムードで始まったといわれています。
「ここで貴方を切れば、物事はうまく進むのではないだろうか」という西郷隆盛に、「おまえさんがそんなことでは、ラチがあかないだろうが」と返す勝海舟。
このようなやり取りのエピソードがあったとされる江戸城無血開城の会見。
会見は、江戸総攻撃が予定されていた慶応4年3月15日の直前、3月13日と3月14日に薩摩藩邸でおこなわれました。
勝が伝える幕府側の意向に対し、西郷は自分の責任において預かると伝え、江戸城無血開城と江戸総攻撃中止が決まります。
[ad#co-1]
池上本門寺での会見
薩摩藩邸以外にも会見はおこなわれていた。
薩摩藩邸の会見に先立つ3月12日にも西郷隆盛と勝海舟の会見はおこなわれています。
場所は、日蓮上人の霊跡地として知られる池上本門寺庭園、松濤園です。
池上本門寺に本営を置いた東征軍、本営にいる西郷隆盛のもとを勝海舟が会見を求めます。
旧知の間柄とはいえ、敵軍の本拠に向かう勝の度胸の強さと日本を守ろうとする意志が伺え知れる出来事です。
この会見の内容はハッキリとておらず、薩摩藩邸でおこなわれた会見の事前準備であったとされています。
池上本門寺での会見が江戸城無血開城に繋がったのかもしれませんね。
[ad#co-2]
江戸城無血開城以降の西郷隆盛と勝海舟
江戸幕府が倒され明治の世となった日本。
幕末から明治と激動の時代に活躍した西郷隆盛と勝海舟は、江戸城無血開城以降どのような生涯を送ったのでしょうか。
静かで落ち着いた生活に戻ったのでしょうか。
いえ、新しい時代は西郷の力を必要としており、一度は鹿児島に戻った西郷は、大久保利通らに要請されて再び上京、明治政府の要職に就きます。
明治にはいってからの勝海舟は、持ち前の気骨心・正義感からさまざまな人の復権に奔走。
[ad#co-3]
西郷隆盛政府を去る、かつての友との戦い
鹿児島に帰郷した西郷隆盛は明治政府に対して反乱(西南戦争)を興しますが、後に敗れて自殺します。
明治政府の職に就いた西郷隆盛は、朝鮮との関係悪化という問題に直面していました。
この問題に西郷は、自ら交渉に赴き、決裂の場合は戦争も辞さない構想を固めています。
西郷の構想に大久保利通ら政府首脳陣は反対、国力の充実を図るのが最優先だと。
西郷は大久保らには賛同できず、明治政府を去り鹿児島へ帰郷。
鹿児島で悠々自適な生活を送っていた西郷の元に、彼を慕うものが集まります。
なかには明治政府に不満を持つものがいて、新政府との間に争いが勃発。
これが、国内最大の内戦、西南戦争へと繋がりました。
挙兵した西郷は、かつての友である大久保利通ら政府軍と熊本城や田原坂の戦いで激しい戦闘を繰り広げます。
一時は優勢になるものの、数で勝る政府軍に敗れ、鹿児島の城山で自刃、その生涯を閉じます。
自刃の際、西郷に去来する思いはどのようなものであったのでしょう。
[ad#co-4]
「コレデオシマイ」が最後の言葉
西郷隆盛・徳川慶喜の復権に奔走・脳溢血で幕を閉じる。
明治の世になってからも、勝海舟の生き方にはブレがありません。
日本のためと徳川幕府に苦言や批判をおこなってきた勝も、本来は忠義の人です。朝敵となった徳川慶喜の赦免を求め奔走します。
また、西南戦争で逆賊の烙印を押されてしまった、西郷隆盛の名誉回復にも尽力。
明治天皇に西郷の功績を伝えるなど働きかけます。
勝の尽力により西郷は名誉を回復、上野の銅像建立へと至ります。
勝海舟の人生の幕が下りるのは、脳溢血が原因、1899年享年77歳でした。
勝が残した最後の言葉は「コレデオシマイ」、死に際まで凡庸な枠には収まらない人物です。
まとめ
江戸城無血開城に導いた西郷隆盛と勝海舟。
お互いの才覚を知り認め合える関係を築けた二人がこの時代に居たからこそ、現在に続く日本があるといえるでしょう。
[ad#co-1]