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歴史人物のお話

孝明天皇と明治天皇の関係は?南朝・明治維新勢力の毒殺説の真相とは

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孝明天皇と明治天皇は、ともに幕末から明治にかけての激動の時代に生きた人物です(親子です)

海外列強の圧力という難局を乗り切り、日本が大国に成長していく動乱期を国家元首として生きた2人の人物は、実は対照的な性格を持っていました。

今回は孝明天皇と明治天皇の関係や性格の違い、さらにはそれぞれの天皇にまつわる暗殺説について検証していきましょう。

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孝明天皇と明治天皇の関係は?本当に親子?

孝明天皇,明治天皇

正史では、孝明天皇は風邪による天然痘によって崩御したことになっています。

36歳という若さでした。

そして、その息子であった睦仁親王が明治天皇として即位したことになっています。

しかし、こうした正史に疑いの声があります。

孝明天皇の死があまりにも不自然なタイミングだからです。

孝明天皇は1866年12月25日に崩御しました。

なぜこの死が不自然かというと、同じ年(1866年)の9か月前に薩長同盟が成立したことに関係しています。

犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩がなぜ電撃的な和解をしたのか。

その背景には孝明天皇の暗殺を主導したのは、薩長連合という説があるからです。

薩長連合の目的は、北朝から南朝へ天皇の系譜を交代させるというものでした。

天皇の系譜を交代させるため、薩長連合は睦仁親王(明治天皇)をも暗殺し、南朝天皇の血を引く人物にすり替えられたというのです。

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南朝方による毒殺説の根拠

薩長連合の目的を理解するには、室町時代の南北朝時代(1336年~1392年)を理解する必要があります。

話は明治時代よりかなりさかのぼった南北朝時代(足利尊氏や後醍醐天皇の時代です)、日本には二人の天皇が存在し、お互いが自分の正統性を主張していました。

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京都で勢力を持っていたのが「北朝」、奈良の吉野で勢力を持っていたのが「南朝(後醍醐天皇はこちら)」です。

南北朝が数十年にわたって戦った結果、力を失った南朝は北朝に吸収されるような形で合体します(足利氏が支援する北朝が勝ちます)

北朝が正統ということになり、60年余り続いた南北朝時代が終わりました。

現在の天皇も北朝の子孫ということになります。

これを踏まえた上で、孝明天皇の暗殺を見ていきましょう。

長州藩は南朝を支援してきた歴史を持ち、南朝天皇の子孫を代々保護してきました。

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この子孫を再び天皇に祭り上げることを長州藩は長年の悲願としていました。

孝明天皇は公武合体派で幕府との関係性を重視し、討幕派とは対立していました。

討幕派である長州藩にとって、孝明天皇は邪魔な存在です。

そこで長州藩の桂小五郎は、薩摩藩の西郷隆盛にこう呼びかけました。

「南朝を復活させよう!」

同じく南朝の子孫である西郷はこれに同調し、薩長連合が成立(1866年3月)。

薩長連合の成立から9か月後の12月25日、孝明天皇は突然崩御しました。

こうした背景から、岩倉具視を中心とした薩長連合が孝明天皇を毒殺したのではないか、という噂が持ち上がるようになりました。

さらに、薩長連合は孝明天皇の息子であった睦仁親王(後の明治天皇)も暗殺したという説もあります。

長州藩が代々保護してきた南朝天皇の血を引く大室家の大室寅之祐が、睦仁親王とすり替えられて、そのまま明治天皇に即位したというのです。

これが明治天皇すり替え説です。

その証拠として明治天皇と体格と利き手が上げられています。

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天皇即位前は、虚弱な体質のためか細身であったが、即位後の体重は約90㎏あったと言われています

次に利き手ですが、即位前は右利き、即位後は左利きになっていたそうです。

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毒殺説への反論

いくら薩長連合にとって天皇が邪魔な存在であろうとも、2000年以上続いた万世一系の天皇を殺すことは考え難いという指摘です。

日本には「穢れ(けがれ)思想」があります(哲学者の梅原猛氏や作家の井沢元彦氏が主張しています)

「血」や「死」を通じて、自分が穢れてしまうという考え方です。

鎌倉幕府の誕生で、天皇は軍事権(武力)を放棄し、武士に譲ることになります。

武士たちは、武器を持たない丸腰の天皇をいつでも殺すことはできました。

しかし武士たちは天皇を殺すどころか、むしろ丁重に扱い続けました。

天皇を殺すことによって、自分たちが穢れてしまうと思ったからです。

自分を神だと信じ、本願寺や延暦寺などの宗教勢力と対立した織田信長ですら、天皇に対立する動きは見せていません。

日本人にとって、万世一系の天皇は特別な(神聖な)存在であり続けました。

そのため天皇を殺そうという発想自体に無理があるのではないか。

こうした「穢れ思想」の観点から、孝明天皇と明治天皇の暗殺は考え難いという意見があります。

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孝明天皇の性格は?

孝明天皇は外国を嫌う「攘夷」思想を持っていました。

幕府が開国を認める条約を朝廷の許可なしに結んだときは憤慨したため、部下にとっては怖い存在だったようです。

一方、黒船来航による列強の開国要求を受けているとき、ご飯も食べられないほど悩み、一種のノイローゼ状態であったとも言われています。

「攘夷」という強気の態度とは裏腹に、少し気弱な性格だったのかもしれません。

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また勉強が好きで、朝廷の学問所である「学習院」を創設したことでも有名です。

健康状態はいたって良好でした。

そのため天然痘による崩御に疑いが持たれ、暗殺説が流れるようになりました。

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明治天皇の性格は?

孝明天皇の突然の崩御を受けて、明治天皇は14歳で即位します。

現代だと中学生で、この翌年(1867年)には大政奉還が起きています。

激動の変化を前に、本人はどんな気持ちだったのでしょうか?

明治天皇は常に国民に寄り添った人物であると記録されています。

ドナルド・キーンによると、西南戦争で腕や足を失った兵士の傷口に触り、ねぎらいの言葉を一人ひとりにかけたそうです。

兵士たちはその場で泣き崩れたそうです。

ちなみに明治天皇は、刺身と花見、風呂が嫌いで、アイスクリームが大好きだったそうです。

外国嫌いな孝明天皇が知ったら、悲しむようなエピソードです。

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まとめ

薩長連合による暗殺が真実であれば、現在の天皇は、北朝ではなく南朝の血を引いていることになります。

これは日本の歴史がひっくり返るような話です。

「穢れ思想」から考えても、天皇を殺す(暗殺する)というのはあまり現実味がありません。

孝明天皇が崩御したタイミングが、あまりにも薩長連合にとっては都合が良かったため、色々な憶測を呼んだのではないか。

これが二人の天皇の暗殺説の真相だと思われます。

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