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西郷隆盛と月照の関係は男同士の…?大河ドラマで描けない入水自殺理由

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西郷隆盛は、幕末の動乱期に月照という名前の僧侶と同志になります。

その後、政治的窮地におちいった2人は入水事件(心中事件)を起こしています。

心中とは「一緒に死のう」と誓い合うことですから、2人にはよほど強い関係性(恋愛関係?)があったことがうかがえますね。

今回は、西郷隆盛と月照の関係について、大河ドラマではなかなか迫れない部分(男性同士の恋愛関係など)を中心に紹介します。

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西郷隆盛と月照の関係はやっぱり男同士のアレ…?

西郷隆盛,月照

明治に入るまでは、男同士の恋愛というのは珍しい話ではありませんでした。

特におおらかなお国柄である薩摩藩の西郷隆盛ですから、ふたりが恋愛関係になることは「ない」とは言えないと思います。

まずは、西郷隆盛の心中相手となった月照という人物について知っておきましょう。

月照の生まれは1813年です。

西郷隆盛の生まれは1828年ですから、月照は西郷隆盛よりも15歳ほど年上の人物ですね。

大坂の町医玉井鼎斎の長男で、讃岐国で生まれました。

15歳で京都清水寺成就院の蔵海の弟子になり、23歳で師匠の死によって成就院の住職となります。

そのころ月照は清水寺の改革を始めますが、これには失敗して1853年7月に寺を飛び出さざるを得なくなります。

この翌年(1854年)には、境外隠居(つまり追放)を申しつけられることとなり、成就院の住職は弟が継ぐことになりました。

月照と朝廷と薩摩藩とのつながりは?

成就院は青蓮院宮(後の中川宮)の支配下にある寺で、近衛家の祈願寺だったために交流がはじまって、堂上にも登るようになります。

そして近衛家の当主の近衛忠煕(このえただひろ)に和歌を習うなど親密な交流がありました。

近衛忠煕は、妻の興子が薩摩藩主の島津斉興の養女であり、島津斉彬とは義理の兄弟の間柄でした。

島津斉彬の養女の篤姫が将軍家定の正室になる時には、近衛家の養女として入っていますので、親戚というだけではなく政治的にも緊密な関係の人でした。

当然のごとく月照は、勤王の思想を持つことになりました。

月照と西郷隆盛との出会いはいつ?

清水寺の住職を離れた月照は、勤王の志士として動き出します。

月照は農政に関する意見書を書いていて、その内容を島津斉彬が気に入り側近になりました(島津斉彬は西郷隆盛の君主です)

同じく下級武士から側近に抜擢されていた西郷隆盛との出会いはその頃だと思います。

月照と西郷隆盛、同じような経歴を持つ2人が親しくなるのは自然な流れだったでしょう。

西郷隆盛が月照と一緒に入水自殺を図った理由

2人は時代に翻弄され、入水自殺まで追いつめられていきます。

なぜ2人がはそのような決断をせざるを得なかったのか?

まずは当時の時代背景について整理しておきましょう。

黒船がきた!

そのころの日本は、嘉永6年(1853年)ペリーがアメリカ大統領の手紙を持って浦賀に現れ大変な騒ぎになっていました…と、よく言われていますが、そうでもなかったようです。

それまでにもイギリスやロシアの船が沖をウロウロしていたり、勝手に測量したりして幕府から追い返されてますので、庶民は「とうとう来たか」と思っていたようです。

しかし、正式にやってきたので幕府は今まで通りの先送り戦法ができなくなりました。

幕閣だけでは話にならず、鎌倉幕府が蒙古襲来の時に朝廷に意見を聞いた前例もあり意見を求めたり、大名達や果ては庶民にまで意見を求めました。

その中で、老中・阿部正弘が一番頼りにしていたのが、島津斉彬なのでした。

薩摩藩の意志とは

今までの政治はすべて幕府官僚だけで進められていて、お飾りだけでないがしろにされていた朝廷や、官閣にはいることができなかった大名達が喜んだのは言うまでもありません。

薩摩藩は関ヶ原の合戦の戦いで徳川と相対した西軍にいたことが原因で、大名として残ったものの政治からは遠く離されていましたので、起死回生の大チャンスでもあったわけです。

ペリーが来る前にアメリカが来るという忠告をオランダから聞いた時は、幕閣以外には秘密の事案でしたが、慣例を破って琉球王国をもつ薩摩藩に、阿部正弘は直々に相談したといわれています。

しかし阿部正弘が急死してしまい、彦根藩の井伊直弼が大老になったことが不幸の始まりとなったのです。

安政の大獄の西郷隆盛・月照への影響

西郷隆盛と月照は、井伊大老に対抗する薩摩藩と朝廷と水戸藩の中で奔走したことにより、幕府から目を付けられて、安政の大獄の処断リストに載ってしまいます。

嘉永7年(1854)3月3日に幕府は独断で、日米和親条約を結んでしまいました。

実は幕府内では、それだけでなく将軍の後継ぎ問題も起きていました。

このふたつが、国中を巻き込む安政の大獄の引金となりました。

将軍の後継ぎ問題

島津斉彬の養女が嫁いだ13代将軍・家定は病弱で子供がいませんでしたので、この混乱した日本を治めるに値する将軍を求める勢力が出てきたのです。

英明で名高い、水戸藩主の息子で一橋家の後継ぎになっていた一橋慶喜が候補になり、これをおす水戸藩・薩摩藩らを「一橋派」と呼びます。

井伊直弼を中心とした、紀州藩主の徳川慶福を推挙する「南紀派」と呼びます。

このふたつが対立していましたが、井伊直弼が血統の問題を主張して、南紀派が強引に14代将軍を徳川慶福(家茂)にしてしまったのです。

孝明天皇怒る

安政5 (1858) 年8月、勝手に将軍の後継ぎを決め、勝手に外国と調印した幕府に、孝明天皇は怒って譲位を表明してしまいました。

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