Sponsored Links

歴史人物のお話

信長と家康の関係は兄弟なみの仲良し同盟?本能寺での暗殺の真相は?

関ヶ原から豊臣家を滅ぼした歴史の印象が強く、信用できない「タヌキ親父」イメージが今にも残っています。

しかし、家康は信長に対する同盟を守り続けます。

三方ヶ原の戦いで惨敗し、朝倉家攻めでは信長の義弟・浅井長政の裏切りに合い、家康はしんがりで退却戦を展開し、大被害を受けます。

しかし、そのとき共に戦ったのは、信長が最も目をかけていた秀吉です。

信用できる人材をしんがりにおかなければ安心して撤退などできません。

そして、姉川の合戦では信長と共に戦い復讐をなしとげます。朝倉・浅井軍連合軍を打ち負かしました。

「甘いところのある天才」と「正直で律義者」のコンビ

家康は同盟者として信長に忠実でした。

そして信長は現代に伝わるような非情で冷酷な人間ではなかったのです。

つまり、「正直で律義者」の武将・家康と、「人を信じすぎる甘い天才」武将・信長の同盟という面があったのでしょう。

史実の史料からはそのような関係も透けて見えてきます。

同盟が長く維持された理由は信長と家康の性格も一因でしょう。

そして家康は、秀吉がそうであったように信長に心酔していたのではないでしょうか。

[ad#co-1]

信長と家康が同盟を結んだのはなぜか

人間的に仲が良いというだけで、熾烈な戦国時代で同盟が長く続くものではありませんし、結ばれるものでもありません。

信長と家康の同盟は、多くの軍事同盟と同じく、織田信長と徳川家康の利害が一致していたから結ばれた物であるのは確かです。

上洛を目指す信長は、東の方の壁として徳川家・徳川家康の力が必要でした。

そして、周囲を武田家、今川家、北条家といった強力な戦国大名に囲まれた家康にとっても、信長の助力を得られる同盟は有効だったのです。

信長と家康の同盟が長く続いたのはなぜか

織田信長は本能寺の変の時点ではまだ、多くの敵対勢力を持っていました。

東には強力な北条氏がいます。

他にも有力な大名は多くいました。

そうなると、信長にとって東から敵に攻められるのは非常にまずいわけです。

そして、家康にとって、天下に号令をかけんとする織田信長の同盟者であることは、信長の死まで非常にメリットのあることでした。

この状況が本能寺の変まで続いたこと。そして、ふたりの性格が現代に伝わる通説通りのものではなく、正直な律義者・家康と甘いところのある覇王・信長という性格も、同盟の結びつきを強めていたと推測できます。

家康の信長に対する接待などをみると、信長に心酔していたとすら思えます。恐怖だけで、人は抑えられません。

そもそも、人に恐怖を与えるより、甘すぎて舐められて、謀反されまくっていたのが信長なのですから。

本能寺の変の後、信長を心酔していた秀吉が天下を取りました。

そして信長を最後まで裏切らなかった家康がその次の天下を握ったのです。

家康もやはり信長を心酔していたのではないでしょうか。

[ad#co-1]

「本能寺の変」の真相は?そのとき家康は?

2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、家康暗殺を命じられた明智光秀が家康と組んで信長を暗殺したという新説をベースにシナリオが描かれました。

最終回では家康は光秀に騙されたと言いますが。

しかし、この説はまだ証明されていません。

ただ、歴史をエンタメとして面白くするために採用するのはありでしょう。

小説やドラマなどのエンタメは面白いことが最優先です。

歴史考証が正しくても面白くないドラマや小説など誰が見るでしょうか。

それなら、教科書や歴史書を読んだ方がマシですから。

しかし、史実はまた別にあるということも覚えておく必要があると思います。

では、本能寺はなぜ起きたのか。

そのとき、家康はどうしていたのか?

家康は信長の暗殺に関係していなかったのか?

史実に沿って検証していきましょう。

[ad#co-1]

本能寺の変はなぜ起きたのか

本能寺の変は、日本史の「ミステリー」と呼ばれるほど謎の多い事件です。

教科書的史実では、明智光秀が信長に対し恨みを抱き謀反を起こしたとされています。

簡単な事実説明はそれでいいのでしょう。

しかし、その背景に多くの謎があります。

Sponsored Links

次のページへ >




Sponsored Links

-歴史人物のお話

© 2020 トレンドジャンプ!