幕末、長州藩を討幕へと導く指導者となり、維新成立の直前で惜しくもなくなってしまった高杉晋作。
当時、長州藩は彼と木戸孝允(桂小五郎)の2人で切り盛りしている状態でしたから、もし彼が生きていたら初代の総理大臣ぐらいにはなっていたかもしれませんね。
(結局、初代の総理大臣は彼の子分のような存在だった、同じく長州藩の伊藤博文がなることになります)
今回は高杉晋作の妻や愛人関係についてリサーチしてみました。
高杉晋作の華麗な女性遍歴とは?
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高杉晋作と妻・雅子との関係
高杉晋作には「雅子」という正式な妻がいました。
正妻の身としては、自由すぎる高杉晋作の生き方についていけず、頭を悩ませることが多かったようです。
まずは妻雅子とのなれそめについてみていきましょう。
高杉晋作と妻である雅子との馴れ初め
高杉晋作は、22歳の時に井上平右衛門の次女・雅と結婚します。
自らの修行不足であったり、「30歳で結婚するのが良い」という孔子の教えに従っていた高杉晋作は、30歳までは結婚しないと周りにも宣言していたようです。
それなのに、なぜ22歳で結婚という事になってしまったのでしょうか。
そのきっかけは、父親同士が2人の縁談を持ちかけたことにありました。
雅の父である井上平右衛門が、縁談相手の名前が書かれたクジを作って雅に引かせた結果、高杉晋作を引き当てたという一説もあります。
親孝行であった高杉晋作は父親の説得を受け、1860年11月に雅と結婚することになりました。
現代でいうお見合い結婚だったというわけですね。
しかし2人の結婚生活はたった6?7年ほどしかなかった上に、実際に一緒に暮らしていた時期は2年もなかったと言われています。
高杉晋作の妻・雅子はどんな女性だった?
井上雅(のちの高杉雅子)は、山口町奉行を務めていた長州藩士・井上平右衛門の次女でした。
町奉行といえばかなりの高官ですから、彼女は両家の女性だったということですね。
しかも街では大評判の美人であった彼女には、多くの縁談が舞い込んでいたそう。
多くの縁談相手の中から選ばれた高杉晋作と、16歳の時に結婚することになります。
それからというもの、国事でなかなか帰ってこない夫・高杉晋作を辛抱強く待ちながら暮らす日々が続きます。
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高杉晋作と愛人たちとの関係
高杉晋作には雅子以外にも「おうの」と「野村望東尼」という2人の女性の存在があったと言われています。
英雄は色を好むとも言いますが、高杉晋作の女性関係もなかなか活発なものであったようです。
高杉晋作の愛人・おうのはこんな女性
おうのは下関の芸妓でおっとりした性格の女性であり、20歳の時に高杉晋作と出会います。
その後高杉晋作に身請けされたことをきっかけに、彼と九州でともに暮らすようになりました。
晩年の高杉晋作は、おうのとの生活が中心であったとされています。
本妻・雅子と愛人・おうのの関係
高杉晋作の生前は、本妻と愛人の間で静かな女の戦いがあったといわれています。
九州で暮らす高杉とおうのの元へ、雅子が子供を連れて訪れることもあったそうです。
これには高杉もかなり困ったようで、「気まずかった」というような旨を手紙で桂小五郎に愚痴る事もあったようです。
しかし高杉亡き後は、雅子とおうのは意外に仲良くやっていたという一説があり、雅子とおうのがいかに懐の広い女性であったかが伺えます。
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もう1人の愛人?野村望東尼の存在
高杉晋作にはおうのの他にももう1人、「野村望東尼」という女性の存在がありました。
ただ彼女は高杉晋作とは親子ほどの年の差があり、愛人というよりかは頼れるパートナーのような間柄であったそう。
明治維新において、長州藩に命を狙われていた高杉を、彼女が匿っていたというエピソードは有名です。
その他数々の局面でも高杉の支えとなり、彼の死を雅子らと共に看取ったともいわれています。
まとめ
高杉晋作と3人の女性との関係について掘り下げてみましたが、いかがでしたか?
弱冠27歳でこの世を去った高杉晋作の恋愛事情も、なかなか波乱万丈なものであったようですね。
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