2018年大河ドラマ「せごどん」の主人公といえば西郷隆盛ですね。
彼の人生の最後は「征韓論」によって一気に死に向かって加速していくことになります。
征韓論による対立によって大久保利通などに敗れたことで、西郷隆盛は政府を去ることになったからです。
(征韓論に敗れた後、彼は政府への不平士族を集めて西南戦争を起こし、さらに敗れて戦死します)
今回は、そんな西郷隆盛の人生にとって決定的に重要な征韓論の意味や反対された理由、関連人物などについてわかりやすく解説させていただきます。
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征韓論とは何?意味や反対理由をわかりやすく!

(明治日本は朝鮮を開国させようとした=征韓論)
征韓論とは、ごく簡単に言うと「当時鎖国をしていた朝鮮(今の韓国)を、日本の武力によって強制的に開国させよう」という考え方のことです。
当時日本はまだ開国したばかりでしたが、江戸時代の鎖国政策からガラッと変わってご近所の国にも開国してもらって貿易を行おうとしていたのでした。
日本がアメリカによって無理やり開国させられたように、今度は日本が朝鮮を開国させよう、というわけですね。
「これまで自分たち(日本)も鎖国してきたくせに、なんでいきなり態度が変わったの?」と思われる方も多いかもしれませんが、日本が朝鮮に開国をすすめたのには以下のような理由があったのです。
日本が朝鮮に開国をすすめた理由

(大国ロシアの南下を防ぐため、朝鮮には開国して強くなってもらい、独立を保ってもらう必要があった)
朝鮮のすぐ北には大国ロシアがあります。
朝鮮半島が鎖国で弱いままだとロシアに簡単に攻め取られてしまいますから、そうなると日本は直接的にロシアと向かい合わなくてはならなくなるのです。
そうならないためにも、朝鮮には開国して軍事力を持ってもらい、しっかりと独立を保ってもらって日本とは友好的な関係を確立しよう、と考えたのです。
ということで、日本はさっそく「貿易をしましょう」という使者(佐田白茅、森山茂など)を朝鮮に送ることにしました。
朝鮮側は日本の開国要求を拒絶・侮辱
この死者は、もともとは「あなた方朝鮮国も、日本と同じように開国して富国強兵を進めていかないと、欧米列強に飲み込まれてしまいますよ」というアドバイスをしたといいます。
しかし、朝鮮にわたった使者は「昨日までは鎖国をしていたくせに、いきなり欧米のまねごとをし始めるなんて恥ずかしいやつ!」というように朝鮮側から侮辱されてしまいます。
このことが日本国内に知れ渡ると、日本では「朝鮮を許すな!」という声が高まり、「強制的にでも開国させるべきだ」という意見が強くなります。
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征韓論における西郷隆盛の役割

(上野の西郷隆盛銅像)
これらの意見を代表していたのが西郷隆盛や板垣退助です。
政府にはほかにも大久保利通、木戸孝允、岩倉具視といった大物がいますが、彼らはちょうど海外への視察に出ているところでした。
当時、西郷隆盛は日本でただ一人の陸軍大将です。
普通、軍隊というと陸軍と海軍の2つがセットになっていますが、このときはまだ海軍らしい海軍はありません。
なので軍隊といえば陸軍のことでした。
その陸軍のトップ(大将)ということですから、西郷隆盛は当時の日本では最強の権力を持った男だったということですね。
そんな西郷隆盛が主張した征韓論ですから、当初はほぼ「西郷の言うとおりにしよう」ということで固まっていたのです。
西郷の征韓論における主張は?

(鹿児島県城山の西郷隆盛像)
西郷隆盛が征韓論においてどういう主張をしていたのか?についてよりくわしく見ておきましょう。
一般人のいう征韓論の主張は「無礼な朝鮮を無理やり開国させろ!」というものでしたが、西郷隆盛自身の考え方は違ったとされています。
西郷隆盛は、失業してしまっていた多くの旧士族(さむらい)たちの不満の矛先を朝鮮に向けさせることを狙っていました。
当時、さむらいたちは刀を帯びることを禁じられ(廃刀令:1876年)、平民が徴兵令によって軍事も担当するようになった(徴兵令:1873年)ことで、プライドを傷つけられていたのです。
さらに、秩禄処分(1876年)によってお給料もなくなってしまいましたから、旧士族の不平はマックス状態です。
彼らの不平をそらすためには、外に敵をつくってそれに当たらせるのが最適だと西郷は考えたものと思われます。
実際、征韓論が失敗に終わった後、不平士族はいっせいに蜂起して日本最後の内乱を戦うことになります(西郷はこの蜂起のリーダーに祭り上げられてしまいます)
征韓論は賛成でほぼ決まっていたが…
西郷は「自分が1人で朝鮮半島にわたって開国の交渉をしてくる。もし自分が殺されたらそれを大義名分に朝鮮半島に攻め上ればいい」という主張をしていました。
当時軍隊のトップの西郷隆盛が言っていることですし、しかも大久保利通などの重鎮は海外に行ってしまっていませんから、政府の意見はほぼこの筋で固まった状態でした。
しかし、そこに上で少し触れた「海外視察組(大久保利通や木戸孝允、岩倉具視)」が帰国してくるのです。
大久保利通や木戸孝允はありとあらゆる手を使って政府内の意見を征韓論反対に持っていき、ついには天皇の名で正式に「征韓論はとりやめ」と決定してしまいます。
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征韓論の関連人物【賛成派 VS 反対派】

(大久保利通の像)
ここで征韓論の関連人物を整理しておきましょう。
征韓論の関連人物を、「賛成派」と「反対派」にわけると以下のようになります。
①征韓論の賛成派
- 西郷隆盛 (薩摩)
- 板垣退助 (土佐)
- 後藤象二郎(土佐)
- 江藤新平 (佐賀)
- 副島種臣 (佐賀)
- 大隈重信 (佐賀)
②征韓論の反対派
- 大久保利通(薩摩)
- 木戸孝允 (長州)
- 岩倉具視 (公家)
- 伊藤博文 (長州)
- 三条実美 (公家:最初は賛成後ボイコット)
征韓論の賛成理由と反対理由
賛成派の西郷隆盛らは、国内の不平士族の目を海外に向けさせることで反乱の勃発を防ごうとしていました。
一方で、反対派の大久保利通らは、海外視察によって西洋文明の圧倒的な力を知り、「とても朝鮮と戦争しているヒマはない。1日でも早く日本国内の近代化を実現しないと」というあせりを持っていました。
反対派はヨーロッパの文明に追いつくことが先決であると考え、国内政治を重視する考えを主張し、征韓論を主張する外政重視派の西郷らと対立しました
結果的に反対派の大久保利通らが勝利し、敗れた西郷隆盛らはいっせいに下野(政府から去ること)することになります(これを明治六年の政変といいます)
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征韓論の後はどうなった?

(板垣退助の像)
結果的に、征韓論はとりやめということになってしまいました。
強い不満を持った賛成派の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らは部下を連れていっせいに下野します(明治六年の政変)
故郷に帰った彼らは、地元の不平士族を集めて次々に反乱を起こすことになります。
このとき発生した旧士族の反乱を一覧にすると以下のようになります。
征韓論後に起きた旧士族の反乱
- 佐賀の乱(江藤新平):1874年
- 神風連の乱:1876年
- 秋月の乱:1876年
- 萩の乱:1876年
- 西南戦争(西郷隆盛):1877年
この中でも最大最後の反乱が西郷隆盛が旧薩摩藩士を集めて蜂起した西南戦争です。
当時圧倒的に「西郷が勝つ」という意見の人が多かったのですが、明治新政府は徴兵制によって集めた兵士と最新兵器を駆使してかろうじて勝利します。
西南戦争の結果、武力によって戦うことの不可能をさとった板垣退助は、今度は政治活動によって政府を動かすべく方向性を変えます。
その板垣退助が中心になり、故郷土佐(高知県)で始めた政治運動が「自由民権運動」であり、この運動は後の国会開設や憲法制定、政党政治の確立へと進んでいくエネルギーになります。
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まとめ
今回は、征韓論について、関連人物や意味について具体的に説明させていただきました。
本文でも説明させていただいたように、征韓論の後は西郷隆盛らによる不平士族の反乱、さらに進んで板垣退助による自由民権運動へと時代は移っていきます。
明治初期の国家の方向性を決定づけた征韓論には非常に重要な意味がありますから、関連人物やその後の流れについてよく理解しておいてくださいね。
(2018年大河ドラマ「せごどん」でも終盤のクライマックスとして描かれるはずです)
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