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歴史人物のお話

西郷隆盛の金玉(睾丸)は大きかった?陰嚢が腫れあがる病気とは?

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明治維新の立役者の一人として、今なお人気のある西郷隆盛は金玉が大きかったという話は有名です。

西郷は身長約180㎝、体重も100㎏を越える巨漢でした。

しかし、だから睾丸も大きかったのかというとそういう訳ではなく、実は病気で睾丸が腫れ上がっていたためだったというのです。

今回は、西郷どんと金玉の大きくなる病との関わりについて解説させていただきます。

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西郷隆盛は金玉(睾丸)の病気だった

西郷隆盛,金玉

金玉が大きくなる病気と聞くと、何か恐ろしい、不可解な奇病のように聞こえます。

しかし実は当時の日本ではさほど珍しくない「象皮病」という病気でした(現在でも犬を飼っている人ならば聞いたことがある病気だと思います)

日本人と象皮病

西郷隆盛がわずらっていた象皮病という病気の症状について解説させていただきます。

象皮病はその名の通り感染した部位が肥大し、皮膚がまるで象の皮膚のように硬化してしまう病気です。

現在の日本で象皮病は根絶されましたが、1912年の陸軍省の調査では北海道を除く青森以南の全ての県で罹患者が見られたとのことです。

フィラリアという寄生虫を知っているでしょうか?

犬を飼っている人は知っているかも知れませんが、蚊を媒介として犬に寄生する寄生虫です。

フィラリアの仲間で、やはり蚊を媒介にして人間に寄生するバンクロフト糸状虫に寄生され、その後遺症として体の一部の皮膚や皮下組織が、異常に増殖してしまうのが象皮病で、結果、西郷隆盛は金玉が異常に巨大化したと考えられています。

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いつ、どこで感染したか?

西郷隆盛がいつ、どこでバンクロフト糸状虫に寄生されたかは正確にはわかってはいません。

当時はそれほど珍しい病気ではなかった象皮病は九州や沖縄諸島の辺りでは特に流行していたため、はっきりとした推測が困難なのです。

しかし、象皮病が進行した時期などからおそらく彼が若い頃に経験した遠島の間にバンクロフト糸状虫に寄生され、その後数年を経て象皮病になり、例の巨大な金玉になったと考えられています。

遠島中の暮らしぶり

西郷の「島流し」は島津斉彬の死の直後1858年からの奄美大島での3年間と、島津久光との確執による1862年からの沖永良部島での約一年半の2回です。

奄美大島への遠島は罪人としての流罪というよりは、安政の大獄にまつわる幕府の追及から逃れるために藩から扶持をもらいながら匿われていたようなものでした。

大島の子供たちに読み書きを教えたり、島の名家の娘との間に子供をもうけたりと、自由は利いたようですが、鬱屈した心をかかえていたのかもしれません。

今、我々が「西郷隆盛」と聞いて思い浮かべるでっぷりとした体型になったのは、この頃のストレスによる過食が原因と言われています。

その後、鹿児島に帰った西郷ですが、 実質的な権力を握っていた斉彬の弟、久光と反りが合わずに沖永良部島に流されます。

この時は完全に「罪人」として吹きさらしの牢獄に収監され、げっそりとやつれた西郷は歩くことさえ困難な程に衰弱したそうです。

間切横目(マギリヨコメ:奄美諸島における保安官のようなもの)の土持政照が、自費で座敷牢を建ててくれて、何とか体調を回復させた西郷。

過酷な島での暮らしが、彼の健康に悪影響を与えたことは間違いなさそうです。

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表現された象皮病

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西郷隆盛のことを調べて象皮病のことを知る人も多いと思われますが、逆に象皮病のことを調べていて西郷隆盛の名前を目にすることも多いものです。

象皮病の有名人といえば西郷隆盛ですが、その他のいくつかの有名な絵画や文学作品にも描かれていることが確認されています。

江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎の描いた、肥大した睾丸を駕籠でも担ぐかのようにして二人がかりで運んでいる図は有名です。

また明治生まれの日本画家である下村観山が描いた「辻説法」という作品には片足のみが異常に肥大した女性が描かれています。

また、絵画以外でも江戸時代のベストセラー、十辺舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも象皮病の記述が見られます。

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西郷隆盛の最期と金玉

西郷隆盛は「維新の英雄」となりながら、最後は西南戦争で旧友達を敵に回し悲劇的な死を遂げます。

彼の死後、あの巨大な金玉は思わぬ注目を浴びることになりました。

政府を離れて

征韓論が受け入れられなかった西郷は、中央での職を辞して故郷の薩摩へ帰ります。

この頃は例の金玉も腫れ上がり出していたようで、馬にも乗れず移動はもっぱら駕籠を使っていました。

最終的には西郷の睾丸は「赤ん坊の頭くらいになった」とか「カボチャくらい」「バスケットボールくらい」等、様々に言われていますが、とにかく生活に支障をきたす程には腫れ上がっていたのでしょう。

歩くときにも難儀するようになった西郷は金玉をウサギの毛皮の袋に入れて吊り下げるようにしていたとか。

そんな中でも、西郷は故郷に私塾を開き後進の育成に力を注ぎましたが平和な日々は長くは続かず、1877年遂に西南戦争が勃発しました。

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城山に散る西郷…その時金玉は…?

一時は権力の中枢に近づきながら無残な死を遂げた西郷ですが、彼の金玉は最後に意外な活躍(?)を見せます。

激戦を繰り広げた西郷方の反乱軍と新政府軍。

結束の固かった反乱軍ですが、一見寄せ集めのようには見える新政府軍は、電信など当時最新の技術を駆使した作戦により反乱軍を追い詰めてゆきます。

わずかな手勢と共に城山に潜伏していた西郷は、銃弾を浴びました。最後まで付き従っていた別府晋介に「晋どん、もうよか」そう言って腹を切り満49歳の障害を閉じます。

介錯は別府が勤め、後に西郷の後を追いました。

西郷の首級は新政府軍に奪われる事を案じた仲間が持ち去り隠したのですが、新政府軍が首なしの遺体を西郷のものだと確信したのは、あの巨大な金玉を確認したからだとされています。

西郷を見たことがない者でもはっきりとわかる程に西郷の股間は特徴的だったのでしょう。

西郷の遺体は、後に発見された首と共に手厚く葬られました。

まとめ

西郷が金玉を包んでいた袋を民家に置き忘れたことがあり、彼はそのまま亡くなってしまいました。

件の民家では「西郷どんの忘れ物」としていつか取りに来る事を信じてずっと大切に袋を保管していたという話があります。

大きくなりすぎた金玉は本人にとっては迷惑なものだったことでしょう。

しかし図らずも、逆賊として非業の死を遂げながらも薩摩の人々に慕われた西郷の人となりをも垣間見せてくれるのは興味深いことです。

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