西郷隆盛は、幕末から明治にかけて活躍した薩摩出身(鹿児島)の政治家です。
上野公園の銅像でもよく知られ、日本人なら誰でも知っている有名人ですね(大河ドラマの主人公にもなってますし)
しかし、では具体的に何をした人なの?と聞かれると、いまいちピンとこないという人も多いのでは。
今回は、そんな西郷さんの業績について(つまり、西郷隆盛とは何をした人なのか?について)わかりやすく具体的に解説させていただきます。
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①西郷隆盛は幕末期には何をした?
薩長同盟、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城と、西郷隆盛は数多くの幕末の重要な出来事に大きく関わっていました。
西郷隆盛の力なくしては明治維新は成し遂げられなかった、と言ってもいいほど、その影響力は絶大。
幕末の立役者、西郷隆盛がどのような活躍を見せたのか、ざっくりと辿ってみることにいたしましょう。
薩長同盟締結まで
薩長同盟とは、1866年(慶応2年)、倒幕のため、京都にて、薩摩藩と長州藩の間で結ばれた軍事同盟です。
このときの薩摩藩側の中心人物が西郷隆盛でした。
長州藩側の代表は木戸孝允。
当時の薩摩藩と長州藩は、共に”倒幕”という同じ目的を持つ日本のリーダー的存在でしたが、なかなか理解し合うことができず、互いに争い合ったり憎み合ったりしていました。
このままでは江戸幕府の思うツボ。
倒幕のためには、両藩の協力体制が不可欠ですが、恨み節が出るばかりで、なかなか同盟の締結に至りません。
薩摩藩内の反発もハンパないものでした。
そんな中、西郷隆盛が同盟の話を切り出したことでようやく話が進み、同盟は締結。
このとき、西郷の背中を押したのが、あの坂本龍馬だったと伝わっています。
こうして薩摩・長州が手を組み、世の中は大きく倒幕へと動き始めたのです。
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戊辰戦争での役割
薩長同盟の後も、まだまだ強大な力を持つ幕府を相手に、西郷隆盛は策略を巡らせ、ついに、幕府軍から戦争を始めた、という状況を作ることに成功します。
いわゆる、戊辰戦争の始まりです。
当初の慶喜は非常にしたたか。
薩長に対してキレてパニくってくれれば倒しようもありますが、西郷たちはなかなか、慶喜攻略の糸口がつかめずにいました。
そんな中、西郷隆盛は多くの浪士たちを江戸で暴れ回らせ、幕府軍が自分たちに報復してくるような、そんな状況を作ったのです。
徳川慶喜が留守をしている間に、幕府軍による薩摩藩邸襲撃事件が勃発し、幕府内にも「薩摩と戦をするべき」との声が高まります。
したたかに機会をうかがっていた慶喜も、この勢いを止めることはできませんでした。
かくして西郷隆盛の狙い通り、幕府軍と徳川慶喜を戦の場で叩きのめす機会が到来し、鳥羽伏見の戦いから会津へ、一年半にも及ぶ長い戦いが始まるのです。
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②西郷隆盛は明治維新以降には何をした?
西郷隆盛は参議として明治政府に加わり、その人望の厚さや外交力を活かして活躍します。
しかし、意見の食い違いなどから政府を離れて鹿児島へ帰省。郷里で若者の育成などに従事します。
その後、西郷隆盛が政治の表舞台に戻ることはありませんでした。
明治時代に入ってからの西郷隆盛の活躍を追いかけてみましょう。
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西郷隆盛の明治政府でのポジションは?
西郷隆盛は明治維新での数々の活躍から、明治政府でも確固たる地位を得ます。
その功績とは、まず、戊辰戦争に勝利し、勝海舟との会談により江戸城無血開城を実現させたこと。
江戸の町は戦火を免れ、時代は明治へ。明治政府が産声をあげました。
西郷隆盛はいったんは鹿児島に戻り郷里の立て直しに従事しますが、後に新政府に復帰。明治維新の立役者として多くの支持を集め、軍政の整備や地租改正、太陽暦の採用など、様々な改革に取り組みます。
役職は参議。陸軍元帥の職にも就き、軍のトップに。
重要なポストに就いてもなお、自分の利益や功績など求めることなく、西郷はただひたすら、日本のため、民衆のために身を粉にして働きました。
政治のリーダーとしての才覚はもちろんのこと、その飾らない人柄も魅力で、まだ若かった明治天皇からも慕われていたと伝わっています。
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征韓論を唱えた西郷隆盛
1873年(明治6年)、当時、教鞭な姿勢で鎖国を貫いていた朝鮮に出兵して武力で制圧しようという考えが征韓論。
西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが唱えていた考え方です。
明治維新を共に戦い抜いた同士であり、明治政府の中心人物でもある岩倉具視や大久保利通らは、西郷の征韓論に強く反発していました。
一旦は、西郷隆盛が大使として朝鮮半島に赴く計画が立てられましたが、結局、岩倉具視らの思惑が働いて頓挫。
このことがきっかけとなり、西郷は明治政府を離れて鹿児島に戻ります。
鹿児島では、若いころから確執があった島津久光との摩擦に困窮。
島津久光とは、西郷が若いころ慕い続けていたカリスマ藩主・島津斉彬の弟で、西郷を島送りにした人物です。
そんな西郷のもとに、新政府のやり方に不満を抱く者たちが少しずつ集まり始めていました。
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西南戦争はなぜ起きた?西郷隆盛の最期
1877年(明治10年)、新政府に不満を抱く者たちと共に、西郷隆盛はついに挙兵します。
西南戦争の勃発です。
新政府への不満から、明治維新を支えたカリスマ・西郷隆盛に多くの人々が期待を寄せる中、新政府もまた、そんな西郷に危機感を覚えていました。
一見、寄せ集めのように見える新政府軍でしたが、政府としても軍としても、しっかりと統率が取れていました。
そして、鹿児島に上陸した新政府軍と開戦。
鹿児島城下は戦火に包まれたといいます。
西郷は最期を悟り、切腹して果てるのです。
満49歳。
貧しい武士の家に生まれ、身分の格差や困窮と戦いながら、ただひたすら、日本の未来のために戦い続けた男は、こうして伝説になったのです。
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まとめ
まとめると、西郷隆盛の功績としては以下のようなものが挙げられます。
- 薩長同盟を結び、江戸幕府倒幕に動く
- 王政復古の大号令のために奔走
- 江戸城無血開城を成し遂げる
- 征韓論を唱え、明治政府と対立
- 西南戦争で自刃・満49歳で没
西郷隆盛は、当時としては大変大柄で、おおらかで魅力的な人柄だったといいます。
しかし一方で、表舞台に立って人々を先導するようなことは望まず、あくまで裏方に徹していました。
誰もが知る人物でありながら、その偉業は?と聞かれるといまいちピンとこない理由は、西郷のそうした人柄の表れなのかもしれません。
薩長同盟、江戸城無血開城、征韓論、そして西南戦争。西郷隆盛が成し遂げたこと、かかわったこと、是非覚えておいてください!
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